昭和46年08月01日 月次祭



 信心倍増の、願いを込められての、この7月いっぱいの夏期修行も、とどこうり無く、昨日をもって終らせて頂きました。もうそれこそ熱風に熱風をはらんだ、熱烈な信心御祈念でございました。先ほど光昭が、今日は前講を務めておりました。あの門前の小僧習わずして経を読むというような事がありますが、さすがに教会の中に育てられた、子供だなーと私は思うて聞きました。思わず拍手を送りました。
 最近はあの人丸少を、にもういよいよ専念いたしております。いわいる子供達が信心のお育てを頂く、その手立てというわけでしょうか、最近はとりわけこの前、今度は中学生を対照とした信心実習が、甘木のなんかキャンプ場で行なわれました。でその事をまぁ自分の信心体験として、先ほどお話をさせて頂いておりましたが、その本当におかげを頂いて、もうその男子も女子も、まぁ後で御褒美を頂き、表彰を受けたというのが、あん合楽であり、まぁ本当に面目をまぁ施したと言うわけであります。
 本当に降る照るの事に至るまで、もうそれはもう帰って参りまして、会員一同が申しておりました。もう本当に恐れ入るち。もうそれこそお湿りも何回もあったようでしたけれど、その合間合間にね、合間合間にそのお湿りを頂いて、帰りなどはもう何日間のキャンプで疲れきっておる所え、あの夕立のようなお湿りで、初めて濡れたけれども、その濡れた事が、まぁ最後の元気を振り絞る事が出来るような、お繰り合わせを頂いてと言うて、まぁ帰って参りました。
 ですからおかげを頂いた、そのかげにねどういう準備がいっておったか、その事を今日は申しておるのでございます。それは成る程スタッフの方がここから、3名せしゅしておりました。その3名の者がもう、毎日毎日あっちは机とりくんでは、色んな何があげん会議会議ち言うてから、その丸少の幹部の会議があるじゃろうかと私は、言う位しかも夜も徹する様にして、色んな書類を作ったり、何かに取り組んでるんですね。
 私はそれを無理とでも言いませんけれども、今日光昭の話を聞かせて頂きながら、成る程そうだな、と私は思うた。一つの事が計画される、ために準備が始まる、その準備におおわらわその準備に取り組む。その準備が完了した時には、もう既にそのこれから、行なわれようとするその事は、半分は成就したんだ、と言う様な事を言ってます。それを裏表体験して来ているんです。
 あちら此方の教会からも、随分見えておったんですけども、結局そういう準備なしに来ておるのは、まぁ言うならばうごうの集であるね、けれども、その準備から準備を、その重ねて、その事に当たっておると言う事がです、まぁ言うなら水も漏らさぬ、ようなおかげを受けたわけになるのですね、それを聞かせて頂きながら、思いました。そしてその事を、例えば信心に置いても同じような事ではないでしょうかち。
 例えば、大祭が迎えられる。その大祭のために、もう言わば1月も前から修行始められる方がある。大祭のために準備が、言わばいよいおさおこたりないという所に、至った時には、すでにその大祭は中場も済んだも同じだと。言う様な事を言っております。確かにそうです。私共がおかげを受けなければならないと言う事もやはり同じ事です。そのおかげがゆるがないおかげね。
 先日からの御理解にありましたように、それが家繁盛につながり、子孫繁盛にまで繋がっていくほどしの、おかげのその仁義と言うかね、その基礎作りと言うか。これがなされずして、子孫繁盛やら家繁盛のおかげに繋がっていくと言う事は、思われない。のでございます。この度の夏期修行がね、内容としては信心倍増と、倍増運動という願いの基にでございましたけれども。
 実を言うと、毎年行なわれている夏期修行に、対して変わりはなかったね、これは私自身も、私は皆さんが一生懸命でここで御祈念をなさる、若先生がここで先唱をいたしまして、それこそ、からだ全体の御祈念である。ああいう御祈念を拝ませて頂きながら、私はここで座っておるだけである。けれども誰かが申しました、ほりゃもう御広前がゆるぐような御祈念をなさっておられるかと思うと。
 親先生があそこへ座って、それこそ動かざる事そ山のごとしじっと皆の御祈念を、心の中に心中祈念しておって下さるのに触れたら、もうそれだけで、もうおかげ頂く思いが致しましたと。まぁ成る程、そういう内容でもありましょうけれども、汗一つ流すわけではない、ここでただ座っておるだけの事でございますから、これは私共としてもね、どのような生き方にならせて頂いたら、信心倍増と言う事になるであろうか。
 夏期修行に合わせて、信心倍増信心倍増で、明けてくれましたけれども、とうとうこれという、信心の目指しも出来ずに、1月終ってしまいましたと。いよいよ明日はね、夏期修行は終わりましたけれども、(ぞうを?)握り、いよいよその明日は、本格的に向って参ります。夏の祈願祭が20日に迎えられますね、それまでの私は準備の信心とでも申しましょうかね、記念祭を本当に、いわいる祈願祭たらしめるためのね。
 その日に参って祈願すると言った様なものではなくて、その祈願が、本当に神様に受け取って頂くと言うね、またおかげになって返って来るという、そういう祈願祭でなからなければ、ならないと思えば思うほど、じっとしておられない思いでございます。なかなか。昨日、月の最後の、神様へのお礼の後に、何時ものように、昨日はもうここ真っ暗に、今はここ真っ暗にして夜の御祈念をさせてもらいます。
 虫がいっぱい入るんです。もう私は、もうおどろきましたけれど、あのこの前ここでお話をさせてもらった時にね、つつあん、飯田さんじゃ口がからこう、何遍も何遍もお話しながら出したでしょう、あれは虫じゃった。これ見た所があん中に虫が10匹くらい置いとった、細い虫が。あれからなにか神経質になるくらいに、さあ電気は切ちゃ、そこを閉めよと言うわけで、しとってもやはり入るくらいね。
 そんなわけでございましたから、昨日ももうここでせずに、私の部屋で、部屋も冷えておるし、あちらでやらして頂いた。まぁ色々お話をさせて頂いておるうちに、本当に私共がね、どういう信心をさせて頂いたら良いだろうか、信心倍増運動と言う、一つのスローガンが掲げられた。そんなら、どういう事になったら倍増になるだろうか。今まで一遍参りよったつを、二編にしようか。
 今まで100円お供えしよったと、200円にしようか、今まで大祓い1巻あげよったつを、やはり2回にあげさせてもらう事にしようか、成る程それも、私は大事だと思うですね。けれども、なかなかそれでのうても、まぁ皆さんの場合は一発の信心が出来ておりますから、なかなか踏ん切りがつかん。私としましても、これはどういうような風にさせて頂いたらよかろうかと、ひと月明けても暮れても思わせて頂いて、全然答えが出てこない。そんな話をしておりましたら。
 善導寺の原さんが言われるんです。親先生はもう、これからどげな信心させて頂いたらよかろうかちゅうて、神様にお伺いさえすなしゃりゃ、直ぐこげな信心せよとおっしゃる。だから楽ですち、私共はもうとにかく手さぐりですから。なかなか信心が進みませんとこう。ね、どうしてどうして、そんなに神様が簡単に教えて下さるはずがないね、例え教えて下さってもなかなか実行の出来ん、出来なかったら値打ちはないのだからね、やはり、神様は私共が練る、練るほどにね、練って。ね。
 あぁでもなかろうか、こおでもなかろうか、と心を神様に向けて使わせて頂くと言う事、その事が尊いんだと私は思う。それが、これからこういう信心をさせて頂こうという前の、いわいる、準備運動だと思う。ね、神様がこれからこういう信心せろ、とおっしゃってパッと入れるもんじゃない。それが入れるためにはです、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、心を使わせてもらう。
 練らせて頂くという事が大事。ひと月間なったけれど分からん。もういよいよ夏期修行終ったのにこりゃぁ。ね、昔は50日間でしたからね。けども最近は1月になっていますから、けれどももう20日間は、言うなら夏期修行残っている、どういう信心させて頂いたらよかろうかと。原さんが言われるように、神様から、こういう信心さえしなさいと。と言われてもですね、それが出来なかったら、頂いても同じ事。また神様はそう簡単に教えて下さる事もない。
 そげな事ないよね、信心修行というものは一生が修行じゃとおっしゃるがね、そりゃ原さん、あなたでも私でも、やっぱり信心を、もうこれで良いと言う事はさらさらない。日に日にがさらである。だからこそ、新しいね、言わば瑞々しいまでの、心の中に有難いとか勿体無いという心が湧いて来るのだ。去年有難かったとが5月までもてると言う事はない。私共はその、言わば斬新な有難さを求めて信心をさせてもらう。しかもそれを、一生続かせてもらう。ね。
 ここに例えば、来年の記念祭には目指して、ご造営が思い立たれた。その為にはまず、信心のご造営が先決と言われるのもその事である。家が立つだけが能じゃないその、例えば御広前工事をされると言う事がです、その事によってお互いが力を受ける信心が倍増されるね、その上に、密着してのご造営でなかなければならんというのも、やはり1年半前からね、こうしてそういう運動が起こったというのも、そんな事です。
 だから結局中心である所の私がいよいよ、一つ信心倍増運動に取り組まなければならんのだけれども、まだまだ、それが分からん。けれども皆さんもやっぱ、分からんからというて、分からんでいいはずがない。そこをやはり練っていくという事が大事。今朝のお祈念に、御祈念をさせて頂いておりましたら、見事な菊の花と言うよりも、見事なその菊の茎を頂いた茎。ね。
 この上に花が咲いたら、どのような素晴らしい花が咲くじゃろうかと思われるような、その茎がね、この茎なんです。葉がもう黒いような、葉がこう茎なんです、花じゃない。だからこれにともなうとこの花は、これにふさわしい花が咲くじゃろうと言うような、御心眼を頂いて、何事だろうかなぁと思うておった。と言えばここの信心の、まぁいうなら辛抱のように言われるね、そこから私はですね。
 何かおぼろげながらであるけれども、今日の言わば月次祭を言うならば、ついたちを境に、この事に精進させて頂くと言う事は、とりも直さず信心倍増と言う事になるのではなかろうかと。花は期待されないけれども、この茎に咲く花ならば、おそらくきっと見事な菊の花が咲くであろうというような事を感じさせてもらった。どういう事だろう。皆さんはどうでしょうか、この信心倍増運動が始められて、どうか考えておられるでしょうか。信心倍増ね、これが考えておられぬ、おらんとですね、
 ヒントを与えられてもぴたっとこんのですね、だから今月の焦点であるのも、やはり私は信心倍増と書かせて頂いた。おそらく、今月きりであの、ありゃぁ終ると思うんですよね、もう1年くらい続いたでしょう。あんまり皆さんの所でお役に立って無いような感じもするし、もうこれで書き止めろと言うことになれば、また思い出してから昔のこつ引っ張り出して、まぁ言うたらよかろうと思うんです、まぁ今月いっぱいね、だから信心倍増、これはもう人の前でも一つ信心倍増なからなきゃ。信心倍増。
 私共が信心させてもろうて、おかげを受けると言う事、願う事が成就する。これは対した頃無いと思うですね、願う事が成就したと言うくらいの事は、言うようなおかげではもう絶対もとのもくあみになる事。ね、私は本当に願いもしない事がですね、そりゃぁ様々な願い事がありますから、願ってますよね、どうぞ商売が繁盛しますように、体が健康で、今日もどうぞ家庭円満でね。
 無事に達者にと、願う事はいっぱいありますから、願いますけれども、そういう願いを通して、信心させて頂いておる、その信心が真の信心に段々なって行く所から、いわいる真のおかげになって来る。その真のおかげと言うのがです、いわいる私共が夢にも思わなかったようなおかげね。昨日私の方には、奈良からお客様を受けております。椛目時代に一回参りましたから、もう随分そうですね、やっぱりこう10年になりましょうか。その時分に椛目の御広前で、あの人が来た時に。
 最後のあの千代田さんの所の屋敷を相談して、あそこに建てたらなんて言うて、「古屋さん」が設計図を書いて来ておられたのがあった。まぁこれは5年先か10年先か分からんけれど、こういうのが計画されている、こういう物が出来るような、まぁ話し合いになっておるが、今度あんたどんが来る時には出来とるかんしれんちゅうような話をしておったと事でしょう、と思い出した。その時分の、どうだったでしょうか、5、6百万くらいな、計画じゃなかったでしょうか。
 したらここは今どうでしょう、1億4千万円。安く見積もっても1億4千万円と言われとります。この前来てから、今度来た時にあんまり見事になっとるけんびっくりしてしもうたね、10年前に先生が、このくらいな物が出来るだろう、それも夢のように思うておったのが、それが、夢をもう一つ向うへ乗り越えた、この夢の殿堂が出来た。ね、しかも、もうまだ5年祭にもならんと言うのに、またそこへ百畳敷きが出来ようと言う計画が出来て来ておる。
 まぁだまぁだ、どういう事になって来るやら分からん。私はそういうおかげを持ってです、本当のおかげと言うのだと思う。ね、夢にも思わなかったようなおかげが展開して来る。ね、それには何時もですね、これは最近言い出された事ですけれどもね、何時もの信心倍増の事は、考えるね、こげな事じゃいかんこれ、どういう信心にならせて頂いたら良かろうかと、何時も自分の心の中に、繰り返させてもらう。何時も自分の心の中に、信心を求めさせてもらう所の心。ね。
 それはどう言う事かと言うとね、もうどう言う様な事柄でも、それを有難いと分らせてもらえる、頂かせて頂ける所にいよいよ焦点を置く以外にはないと言う事。言うならばです、ね、最近は、あの、子供達の、昆虫採集がありますね。今日も石井さんの所の子供がやって来てから、こんなカブトムシを持ってきた。あれは随分お金になるんだそうですね今。そのカブトムシをとってくる。
 昆虫採集はぁもう、先生所にはそげんとん細かがいくらでもおるよっち言うちから、どげんとですかち言うちから、私がごっかぶりの事を言うたです、油虫。あれも昆虫採集、葉っぱさいおるけん先生がやるけんとっていかんねちゃ言うたら、そりゃーあげなもんなら家もばさりおるっち言うちから、同じ昆虫でもどうですかね、ごっかぶりじゃ誰もとろうとしませんが、油虫(笑い)ね。
 ところがそれが、カブトムシであると、そりゃ金にまでもなる。同じ昆虫でも。カブトムシといや、こう角のはえとるでしょう。だから私共の心の中に、腹立ちがないのじゃない、あるんです。ね、角を出さぬ事もあるけれども、角を出した事その事がです、有難いと答えになって出てくるようなおかげなからにゃいかん。というて油虫まで有り難う頂けというのじゃない。
 油虫と言うのは自分の心の中の油虫なんです。これだけはとらにゃ、誰からでん嫌われるというものを、改めて取らせて頂くと言う、昆虫採集じゃないですよ、これはとってのかすとですよね、そりゃカブトムシのように、こう角出しとるような心が起こっても、その心を、本当に腹立てさせて頂いたおかげで、今朝の御理解なんかにね、桂先生が腹立てられる、2代の桂先生が、御本部から金光、四神金光様を唱えちゃならんて言われて、偉い方が見えた時にね。
 その偉い先生に、桂先生の奥様がおっしゃった。ここをどこと思うておいでられましたかと。桂松平の御広前とご存知でおいでられましたかと。ね、二代金光様、四神貫之のきみさまなくして、桂松平もなからなければ、九州の信心もありません、とおっしゃった。腹かけられた。その事が今に素晴らしい事として、有り難く受けてるね、神様が腹かきなさるような、腹かきが出来るようなおかげもあるし、ようない腹立ちもあるけれども、その腹立たせて、立たせて頂いたその事事態がです。
 金になるような、物になるような、それが有難いと答えが出るようなおかげを頂くと同時に、自分の心の中からいよいよ本気で、油虫をとりのぞかせて頂く信心に、尽きるのであります。だから信心その思いを一つ倍にしてです、その改まる事の上にも全ての事を、さぁこの事を有り難く受けるためにはどういう頂き方をしたらよかろうか、とそこに修行が思いたたれると言う様な信心こそが、大事ではないでしょうかね。
   どうぞ。